「素材との対話」に魅了されてきた先人と、プロトタイピング。

image

2022/09/28

中でも私が関心を持っている判断は、「バックトーク」と呼んでいますが、「わ〜、なんだこれは」とか「どうしてこうなるのだ」、「こんな風になるとは思わなかったけど、何ともおもしろい」というような、まったく予期しないものを発見することです。バックトークは、デザイナーが素材とインタラクトしている時に起こります [1]。

かつて、この見解を示したドナルド・ショーン氏は、デザイナーを始めとする「専門家」の思考プロセスを研究し、内省的実践という概念で体系化させた人物である。内省的実践は、例えば「デザイナーは直線的に課題解決のためのデザインをすることは滅多になく、作りながら、むしろ作ったものから思ってもみなかった理解を得ることが殆どである」という特性に着目している。冒頭のバックトークと定義づけられたそれはまさに、デザインする対象によってむしろ新しい発見が奨励される状況を端的に表現している。

その一例として挙げている 3M社の製品「スコッチテープ」のデザイナーが意図する職能は、本を修理することにあった。基本的な接着テープであることに加え、その造形の特徴として透明であるから、本を修理するには目立たなくて良いと考えついた訳だ。しかし、実際に市場に出してみると、ユーザーは思ってもみなかった意味を誤読していた。例えばポスターを壁に貼るのに使ったり、包装したり、髪を束ねる用途すらあった。これによって 3M社は、むしろ自らが気付いていなかった輻輳的な意味の存在を発見するに至った。

こういったデザインされたオブジェクトの意図と潜在的な意味の乖離については、D・A・ノーマン氏が提唱するシグニファイアとアフォーダンス[2]が想起されるだろう。慣例に則ってガードレールを例に挙げる。駅のロータリーには、無数のガードレールがあるが、もちろん意図する職能は「進行を防ぐ」ことにある。歩行者と車両が至近距離で往来する空間では、やはり車両のアクシデントにより歩行者に接触したり、逆に歩行者が不用意に車道を横断する機会は避けられなければならない。そこで、1.頑丈な素材で、2.歩行者が進行しづらい高さで、3.車道と歩道を隔てるように設置することに必然性が伴う。こうして、「あれは進行を防ぐものである。」という、共通認識が出来上がる。このような提供者と利用者でオブジェクトの認識が一致している場合を「シグニファイア」と定義している。もっと正確な表現では、人工物が意図的に発しているサインである。しかし、実際に駅前に設置されているガードレールという文脈では、それが唯一的なものの働きではないことが思い出されるかもしれない。つまり、ある人にとって待ち合わせをしている状況であれば、ガードレールは腰掛ける椅子となる。提供者の意図との接地は関係なしに、そのオブジェクトが、その状況で持つ輻輳的な意味を「アフォーダンス」と呼んでいる。

まさに3M社の事例は、端的に表現するならばシグニファイアとアフォーダンスのギャップということになる。そして、ショーン氏はこうした現象を元にして、デザイナーがアドリブ的に応答し、新たな意味を見出す、もしくは形態を変化させることで実装と内省のしなやかな横断を概念として顕在化させたわけである。

ショーン氏の表現する素材との対話(バックトーク)は、前段のような作ったものに付与された意味レヴェルだけでなく、もっとプリミティブな造形的なアイデアにおいても適用される。類似する研究では、例えば諏訪正樹氏は「スケッチ」にそれを見い出している。諏訪氏は、自身の論文において次のような見解を述べている[3]。

もやもやとしたアイディアのまま、スケッチとして紙の上に描き、それを第三者として見ることを通して連想や感情が喚起され、それにより新たなアイディアが生まれる。いわば、スケッチは「考えを固めるための道具」である。
手描きスケッチは、描いたときには予期していなかったビジュアルな属性の発見を奨励する。意図していない形や大きさや位置関係といったビジュアルな属性が、あとになってふと描き手の知覚をとらえると、それが「予期せぬ発見」になる。

この2つの文章はまさに、ドナルド・ショーンも述べるように、デザイナーが論理立ててマイルストーンを設定してから実行に移すというよりも、行為することそのものが思考(=考えを固めるための道具)であることがデザインプロセスの根幹を成すと言っても過言でないことが読み取れる。

ここまでの流れにおいて、ドナルド・ショーンは素材(=Material)という意味において内省的実践を限定しているわけではなく、再度彼の言葉を引用するならば、あくまでも彼のデザイン原論は「複雑さの理解」にある。そういった意味で初期の意図と結果が想定通りに結びつくということは稀であり、そのために作りながら考える実践に重きを置いた思考プロセスとしてメタファとしての「素材との対話」が用いられている。

最後の論点として、こうしたある種のアドリブ的な思考態度はプロトタイピングとして手法化されているが、やはり本質的に重要である「作りながら思考する」というカオスティックさを許容する点とは若干異なった意図で形容されることが多い。つまり価値検証やMVPがそれに該当(もちろん手を動かす以前に価値やニーズを明確にするフェーズのあるプロトタイピングが誤りであるわけではない。)するが、逆にスケッチ的に想起されたアイデアをそのまま形態に落とし込み、実装することで、どういった素材性が内在しているか観察することとしてもプロトタイピングは実行されて良いはずである(HARKingという不正行為には気をつけたい。)。

そもそもとして、デザインする過程が演繹や帰納的な思考に必ずしも囚われず、アブダクションが許容されるのは、ものごとの考え方が順列化されていないことに起因するからではないだろうか。今一度「素材との対話」の態度を自戒としてここに記したい。

参考文献

  1. テリー・ウィノグラード(2002), 「ソフトウェアの達人たち―認知科学からのアプローチ」, ピアソンエデュケーション
  2. D. A. ノーマン(2015), 「誰のためのデザイン? 増補・改訂版 ―認知科学者のデザイン原論」,新曜社
  3. 諏訪正樹(1999), 「ビジュアルな表現と認知プロセス」, 可視化情報学会誌 19巻 72号 p. 13-18

icon
Hajime Tsunoda

図画工作する蔵君。